公立大学法人 兵庫県立大学大学院大学院 地域資源マネジメント研究科

園長日記

(051)仙禽

中村英夫さんの仲立ちで、善立寺のご住職・宮本公朗さんとお会いできたことはNo.45で書いたとおりである。宮本さんは、かつて地元の出石高校で校長先生をお勤めになられたが、そこの同窓会・入佐会の会報第25号をコピーして送ってくださった。会報には『仙禽一声』という随想欄があり、宮本先生がお書きになった「校長室の偉人写真と扁額」という一文を読ませていただく機会に恵まれた。大変興味をもったので、6月15日に知り合い3人を連れだって出石高校をお訪ねした。あいにく現校長先生は会議でお留守だったが、郷公園で以前総務課長を勤められた中川事務長が親切にご案内くださった。

宮本住職が偉人と書かれた人物は加藤弘之である。加藤の生家が高校の隣に現存し、そこにまず案内していただいた。彼が勉強したという部屋や銅像(写真1)などを見ることができた。大学受験に臨む生徒さんたちは、そのシーズンになると、この銅像の頭をなぜて合格を祈念するそうだ。年譜も掲げられていて、彼が天保7(1836)年に出石藩士、加藤正照の長男として生まれたこと。明治3(1870)年には、明治天皇の教育係に就任して、明治13(1880)年には、東京学士会院の会長となり、明治23(1890)年、54歳の時に東京帝国大学の初代総長に就任したことなどが書かれていた。「文学博士」と「法学博士」の二つの学位をもつ、まさに日本の偉人中の偉人であるが、大正5(1916)年に80歳で他界した。

さて、ついで校長室に案内されると、そこにくだんの扁額は掛けられていた(写真2)。これが加藤弘之の揮毫で、「仙禽」とはおめでたい瑞鳥、鶴の別名であり、ツルは当時但馬出石のマツ山に繁殖しており、鶴見茶屋まで出たというコウノトリのことなのである。園長日記のNo.28,39,49に書いた韓国帰りの「ポンスニ」は、今ここ出石で3歳のメス、2歳のオス、1歳のオスと一緒に4羽で日中を過ごしているというから、この歴史的な地でつがいを形成して繁殖してくれることを願わずにはいられない。

(写真1)加藤弘之の銅像(加藤弘之生家にて)

写真1 加藤弘之の銅像(加藤弘之生家にて)

(写真2)加藤弘之の扁額。仙禽とはコウノトリのことだ(出石高校校長室にて)

写真2 加藤弘之の扁額。仙禽とはコウノトリのことだ(出石高校校長室にて)


校長室のテーブルの上には、出石焼の校章が飾られていた(写真3)。この校章の由来について、宮本先生の随想からそのまま牽かせていただくと次のような次第である。

『母校の校章は、昭和23年、出石高等女学校から新制出石高等学校になった当時、一生徒の考案で定まったことが記録に残っている。その校章の象形は、聖鳥「鶴」の形と高校の頭文字「高」から成り立っている。すなわち、「高」の文字を優雅な鶴の双翼によって抱き揚げるという形からデザインされている』ということだ。校歌にも「飛ぶや鶴(たづ)群れいや高く」とあるそうだ。

校長室を辞して外へ出ると、明日の体育祭の応援練習とやらで、太鼓に合わせて元気に高校生たちが声を挙げていた。出石高校は有名な出石の鶴山のおひざ元にあり、校章や校歌にさえコウノトリをいただく高校だ。この元気を発揮されて、「コウノトリ研究部」をつくって将来の野生復帰に大いに貢献してもらいたいものだ。

(写真3)出石高等学校校章

写真3 出石高等学校校章


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