園長日記
5月8日(水)。養父市伊佐地区のヒナが順調に育っており、放鳥する日も迫って来たので様子を見に行ってきた。先日、児童会がヒナの成長を願って「たんじょう集会」を開いた伊佐小学校にお邪魔し、谷垣校長先生から、児童のコウノトリとの取り組みについてご案内・説明をしていただいた。子供さんたちは、毎日、観察日記をつけ、コウノトリのこと、環境のことについて勉強されているようだ。校内からは、須留伎山を中心に、昭和27年3月に「伊佐のコウノトリ及びその繁殖地」として、特別天然記念物の指定地となった浅間の鶴山の場所が見えた(写真1)。
この繁殖地(鶴山)は、出石の鶴山がなくなってしまってからも、昭和46年にこの鳥が野生では絶滅してしまうまで、わが国最後のコウノトリの集団繁殖地であったことはあまり知られていない(写真2)。だからこそ、今回、それを取り戻そうというのが、来月の拠点放鳥の意義である。
そのあとは、市の社会教育課の谷本さんのご案内で、大藪の光泉寺を見学させてもらった。この寺には、弘化3(1846)年に建立された、コウノトリの浮き彫りが刻まれた珍しい句碑が残っていた(写真3)。その碑には、旗本の大藪小出家で代官を勤めた大島貞利(雅号 松翁)という人の「相なれて三日千寿の別か那(あいなれて みっかちとせの わかれかな)」という俳句も添えられている。この近くの養父神社東側の丘は、昭和初期まで鶴山として有名で賑わったそうだ。神社に残る明治30年の絵図には鶴見茶屋も描かれている。だから、大島貞利は恐らく近くのこの鶴山から、病気か怪我で弱ったコウノトリを収容して来て「介抱したが三日目には死んでしまった」という意味の俳句だろう。
さらに、養父市場村が発行した江戸時代後期の藩札のような紙製の古札には、松の上を飛ぶコウノトリの絵が刷られているそうだ。そこには「賃銭預切手・銀壱匁・村限通用」と書かれていて、松とコウノトリを一緒に描いた札(紙幣)は県下でも珍しいと谷本さんは教えてくださった。このように、養父市とコウノトリの関係は、知れば知るほど歴史的にも緊密なのである。
この日、パク・クネ韓国大統領は、わが国の歴史認識について「過去に目を向けない者は、未来を見ることができない」と米国議会で演説した。コウノトリについても同じことが言えるのかもしれない。
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